<2026年8月15日 訂正更新について>
本記事は、シリーズ第8稿『「調べる」から「判断する」へ。AI時代の知のつくり方』で実施した出典監査の結果を反映し、一部を訂正しています。訂正箇所は元の記載を取消線で残したうえで、直下に訂正文を記載しています。

サステナビリティは南方熊楠に学ぼう

――明治神宮の「つくられた森」から考える、自然と歴史のサステナビリティ


はじめに:私は「イノベーション」だと思い込んでいた

子どもたちに何を残せるか。サステナビリティという言葉を前にして、私は長いあいだ「最先端技術でイノベーションを起こし、いまある難題を、いまはまだ存在しない技術で解決する」ことだと考えていた。技術は前へ前へと進み、その先端が未来を切り拓く――そういう時間の向きしか想像していなかったのである。

その思い込みが揺らいだのは、明治神宮に足を運んだときだった。

真夏の表参道駅から鳥居をくぐる。数十メートル歩いただけで、体感が明らかに変わる。頭上を覆う樹冠が日射を遮り、足元の土が熱を溜めない。都市の熱と、森の涼しさ。その境界を、身体が先に感知する。

このとき私が考えたのは、こういうことだった。サステナビリティの土台は、案外「自然と歴史」からスタートすべきなのではないか。

ただし――そう考えて調べはじめてすぐ、私は自分の前提が二つとも間違っていたことに気づかされた。この記事は、その修正の記録でもある。


1. 涼しさの正体:森は本当に「クールアイランド」なのか【理科の目】

まず、体感を数字で裏づけておきたい。

都市の中の大きな緑地が周囲の市街地より低温になる現象は、ヒートアイランドと対をなす概念として クールアイランド(cool island) と呼ばれる。明治神宮・代々木公園とその周辺市街地では、実際に長時間の気温観測が行われている。緑地内の気温から市街地の平均気温を引いた値を「クールアイランド強度」と定義したこの研究では、芝生地では日中の低温効果は小さく夜間に大きくなるのに対し、樹林の内部では昼夜を問わず低温効果が大きくなること、またこの効果は晴天・曇天といった天候にほとんど左右されないことが示されている(下記出典9)。

芝生と樹林で挙動が違う、というのがポイントである。「緑があれば涼しい」のではなく、「樹林であること」が効いている。

同種の効果は皇居でも定量化されている。環境省の観測では、皇居内の8月の気温は周辺市街地より平均で1.8℃低く、昼間は風による冷気の移流、夜間は冷気のにじみ出しが観測された。皇居は都心にあって明瞭なクールアイランドを形成し、周辺市街地の気温低下にも寄与していることが確認されている(下記出典10)。

理科的な整理をしておく。 樹林が涼しい理由は、おおよそ次の二つに分解できる。

  1. 放射の遮蔽 — 葉と枝が日射(短波放射)を遮り、地表面に届くエネルギーを減らす。地面の表面温度が上がらないので、そこから大気を暖める顕熱も減る。
  2. 蒸散 — 根が吸い上げた水を葉の気孔から水蒸気として放出する。水の蒸発には気化熱(潜熱)が必要なので、その分だけ周囲から熱が奪われる。

この二つは、実測でも確認されている。ある市民調査では、樹木がつくる日陰と日向とで最大18℃の温度差が測定されている(下記出典11)(※これは気温そのものではなく主として表面温度・日射環境の差であり、値の解釈には注意が必要だが、日陰の効果の大きさを示す一例ではある)。

要するに、私が神宮の参道で感じた涼しさは気のせいではなく、放射と潜熱という、中学理科の範囲で説明できる物理だった。


2. 修正その1:あの森は「残された自然」ではない

さて、ここからが本題である。

私は当初、明治神宮の森を「大正9年以来、都心に残された自然」だと思っていた。実際、そう感じさせる風格がある。だが、これは事実として誤りだった。

明治神宮の森は、原生林が残されたものではなく、人工的に造られた森である。大正9年(1920年)11月1日が明治神宮の鎮座祭の日にあたり、そこから数えて2020年が100年目にあたる(下記出典1)。

造営の規模も、いま考えると尋常ではない。全国から350種以上・約10万本の樹木が献木として奉献され、のべ11万人の青年たちがボランティアとして植栽や参道づくりにあたった(下記出典2)。

そして、この森の設計には明確な科学的意図があった。

造営にあたった本多静六・本郷高徳・上原敬二といった林学の専門家たちは、将来的にシイ・カシ・クスなどの照葉樹が主要な構成木となるように植栽することを決定した。大正期の東京ではすでに大気汚染が進み、都内の大木・老木が次々と枯れていたため、100年先を見越すなら照葉樹でなければ育たないと結論づけたのである(下記出典2)。

ここには反対もあった。明治神宮創建の審議機関「神社奉祀調査会」の会長で当時の内務大臣であった大隈重信は、伊勢神宮や日光のような杉並木の荘厳な景観を望んだ。しかし本多や上原らは、代々木のスギの生育が他所のスギ林に比べて10〜20パーセント不良であるという実物の生育標本を示して反論し、大隈案を退けた(下記出典5)。

時の内務大臣の美意識を、データで押し返している。 明治神宮の森は、権威ではなく科学的根拠が通った現場だった。

さらに驚くべきは、彼らが描いた計画の時間軸である。本郷高徳が執筆した「林相変移予想図」には、植栽直後・50年後・100年後・150年後の森の姿の予測が描かれている。当時はまだ「遷移」という語がなく「変移」と表記されていた(下記出典3)。

150年後の絵を描いて木を植える。これは自分が絶対に見ることのできない結果に向けて設計するという行為である。

そして、その予測は当たった。鎮座90年の時点(2010年)から進められた第2次の明治神宮境内総合調査では、延べ1000名を超える専門委員の協力により2013年に報告書がまとめられ、100年前に植えられた森が林相予想図の100年後・150年後の姿に確かに近づいていることが、第1次(1980年)調査との比較などから判明した(下記出典3)。

生きものも戻ってきた。約40年ぶりに行われたこの大規模調査では、研究者ら146人が2011年8月から1年半をかけ、新種や希少種を含む計2840種の動植物を確認している。専門家はこれを、約100年前に造成した人工林が成長した学術的に貴重な例だと評価している(下記出典6)。樹木そのものも、在来木を含め創建時には365種だったが、東京の気候に合わない種は淘汰され、現在(平成25年『鎮座百年記念 第二次明治神宮境内総合調査報告書』)では234種になっている(下記出典1,4)。

植えた365種のうち、131種は消えた。 これは失敗ではない。土地に合うものだけが残るというのは、まさに設計者が期待した「天然更新する永遠の森」の姿である。

つまり明治神宮の森は、「自然を残した」場所ではなく、「100年かけて自然になるように人が設計し、そのあと手を引いた」場所なのだ。私の思い込みは、いい方向に裏切られた。


3. 建物は焼け、森は残った【社会の目】

ここに、もうひとつ歴史が重なる。

1945年(昭和20年)4月、空襲によって本殿・拝殿を含む中心部分の社殿が焼失した。一方で、拝殿の南に建つ南神門・東神門・西神門やその周辺の建物群は、創建当時のものが現存している。再建社殿は角南隆の設計により、1958年(昭和33年)に完成した(下記出典7)。

再建の過程も社会科の教材になる。昭和28年(1953年)に「明治神宮復興奉賛会」が結成され、戦後の生活がまだ苦しかった時期にもかかわらず国内外から浄財が寄せられ、昭和33年(1958年)10月31日の鎮座記念祭前日に本殿遷座祭が行われて戦災復興が成し遂げられた(下記出典8)。

ここで押さえておきたい対比がある。

  • 建物は、一夜で失われた。そして再建に13年かかった。
  • は、焼夷弾の被害を受けながらも、生きた系として存続した。

人工物は壊れると人が建て直すしかない。しかし生態系は、致命的な破壊を免れさえすれば、自分で回復する能力を持っている。これはサステナビリティを考えるうえで決定的な非対称性だと思う。

<2026年8月15日 追記:この「建物は焼け、森は残った」という対比は、事実の並置であると同時に、そこに意味を見出す筆者の解釈である。私はこの非対称をサステナビリティの中心的な論点だと考えているが、同じ事実から別の読み方も成り立つ。>


4. 修正その2:国連は「自然ベース > 技術ベース」とは言っていない

さて、私はもうひとつ思い込みを抱えていた。「国連は気候変動対策において、人工技術ベースより自然ベースを高く評価している」というものである。

これも、正確ではなかった。正確には、こうである。

「自然を活用した解決策(NbS:Nature-based Solutions)」とは、自然が持つ機能を持続可能に利用して多様な社会課題の解決につなげる考え方であり、2022年3月の第5回国連環境総会再開セッション(UNEA5.2)において、自然を活用して気候変動や自然災害を含む社会課題に対応し、人間の幸福と生物多様性の双方に貢献するものとする国連としての定義がなされた。同じ整理のなかで、湿地などの雨水貯留・浸透機能を高めて洪水被害を和らげる「生態系を活用した防災・減災(Eco-DRR)」や、都市に樹林や草原を配置して高温を緩和し熱中症リスクを下げる「生態系を活用した適応策(EbA)」も、この概念に含まれる。そしてNbSは、2022年のCOP15で採択された「昆明・モントリオール生物多様性枠組」の目標にも位置づけられている(下記出典12-13,15)。

つまり国連が行ったのは、「自然を使う」という選択肢に国際的な定義と地位を与えたことであって、技術を格下げしたことではない。IPCCの評価でも、緩和策は再生可能エネルギーから土地利用まで幅広く並列に置かれ、費用対効果の高い選択肢が複数示されている。太陽光や風力といった技術的手段が中核であることに変わりはない。

では、NbSの独自の強みは何か。日本国内の整理では、複数の社会課題を同時に解決できること、住民の暮らしの質や地域の魅力の向上に寄与すること、初期導入コストを抑えられること、状況の変化に柔軟に対応できること、そして将来に豊かな資源を残せる「後悔の少ないアプローチ」であることなどが利点として挙げられている(下記出典14)。

「後悔の少ないアプローチ(no-regret approach)」 ――この言葉が、私にはいちばん刺さった。

技術は当たれば大きいが、外れることもある。しかし森を残しておいて後悔することは、まずない。気候対策として効かなくても、生物多様性と防災と景観と地域の記憶が残るからだ。

さらにここに、先ほどの明治神宮の話が接続する。 東京都心の高温を緩和するEbAの実例が、100年前の林学者たちの手で、すでに都心のど真ん中に完成しているのである。彼らはNbSという言葉を知らずにNbSをやっていた。


5. そして南方熊楠へ:100年前に「エコロジー」で森を守った男

神社という、伝統を長期にわたって保ってきた場所の自然。そう考えたとき、避けて通れない名前がある。南方熊楠(みなかた・くまぐす、1867–1941)である。

<2026年8月15日 追記:本稿のタイトル「サステナビリティは南方熊楠に学ぼう」について。熊楠が神社合祀に反対し、具体的な自然保護活動を行ったことは史実として確認できる。南方熊楠顕彰館によれば、熊楠らの運動によって神島は明治末年に保安林に指定され、1930年に和歌山県の天然記念物、1935年に国の天然記念物へと保護が進み、この3段階すべてに熊楠が主導的な立場で関わっていた。一方で、「熊楠はサステナビリティの先駆者だった」という位置づけは史実そのものではなく、現代のサステナビリティという概念から熊楠を読み直す筆者の解釈である。本稿はその解釈のうえに立っている。>

熊楠は和歌山県が生んだ博物学の巨星である。東京大学予備門を中退したのち、19歳から約14年間をアメリカ・イギリスなどで過ごし、さまざまな言語の文献を駆使して国内外で多くの論文を発表した。研究対象は粘菌をはじめとする生物学から人文科学まで多方面にわたり、民俗学の分野では柳田国男と並ぶ役割を果たした。生涯を在野の学者として通し、地域の自然保護にも力を注いだエコロジストの先駆けとして注目されている(下記出典16)。

熊楠が戦った相手:神社合祀政策

熊楠が立ち向かったのは、明治政府の神社合祀(ごうし)政策だった。

神社合祀政策は1906年(明治39年)、第1次西園寺内閣において内務大臣・原敬が出した勅令によって進められた。当初は地域の実情に応じた幅を持たせたものだったが、第2次桂内閣の内務大臣・平田東助がこれを強力に推進するよう厳命したため、1914年(大正3年)までに約20万社あった神社のうち7万社が取り壊されたとされる。特に激しかったのが三重県で県下の神社のおよそ9割が廃され、和歌山県や愛媛県がそれに次いだ(下記出典21)。(※これらの数値は概数であり、統計の取り方によって諸説がある点は留意されたい。)

<2026年8月15日 訂正更新:神社合祀政策は1906年(明治39年)、第1次西園寺内閣において内務大臣・原敬が出した勅令によって進められた。当初は地域の実情に応じた幅を持たせたものだったが、第2次桂内閣の内務大臣・平田東助がこれを強力に推進するよう厳命した。

減少の規模について、最も格の高い出典は大濱徹也『世界大百科事典』「神社合祀」の項である。同項は、全国の神社が1905年の19万5000社から1910年には14万1000社に減少し、4社に1社が消え、無格社の35%が取り潰されたとしている(下記出典22)。

これとは別に、「1914年(大正3年)までに約20万社のうち7万社が取り壊された」とする記述も流通しているが、こちらは期間・母数・数え方が異なる別系統の記述であり、上記と直接は接続しない(下記出典21)。地域差については、三重・和歌山などでかなり大規模に行われたことが大濱の整理でも確認できる。>

熊楠の地元・和歌山県は、この政策の直撃を受けた地域だった。しかも問題は、社殿がなくなることだけではなかった。

熊楠の自宅から徒歩10分ほどの神社には、社殿を覆うような山林が裏山にあり、粘菌などを探す貴重な場所となっていた。ところが1町村に1つの神社を標準として統廃合を進める合祀政策が全国で展開され、田辺市にあった多くの神社林も伐採する計画が持ち上がった(下記出典19)。

神社を統合するということは、鎮守の森を伐るということだった。 何百年も伐られずに守られてきた森が、行政効率の名のもとに一斉に失われようとしていた。

「エコロジー」という言葉を使った

熊楠の反対運動は、激烈だった。

1910年(明治43年)8月、田辺中学校講堂での夏期教育講習会で、合祀を進める県の役人に会おうとした熊楠は入場を阻まれ、酒の勢いも手伝って標本の入った信玄袋を会場内へ投げ込んだ。これにより家宅侵入罪で連行され、18日間未決のまま監獄に入れられた。結局は無罪で釈放されたが、その間も本を読み、構内で粘菌を見つけていたという(下記出典17)。

拘留中に粘菌を見つけている。この人物の精神の在り方が、ここに凝縮されている。

そして翌年、運動は文書として結実する。1911年(明治44年)8月29日と31日、熊楠は神社合祀の非を訴える長文の書簡を、親交のあった柳田国男を通じて植物学者の松村任三(東京帝国大学教授)に送った。柳田はこの2通を『南方二書』と題して50部印刷し、有識者に配布して熊楠の活動を支援した。そして、熊楠は合祀反対運動のなかで「エコロジー」または「エコロギー」という言葉を用いており、今日的なエコロジー思想の先駆者であったことは間違いない(下記出典18)。

南方熊楠顕彰会の田村義也氏は、熊楠がこれを社会活動として取り組んだ点を指摘し、当時欧米で使われはじめたばかりの「エコロジー」という語を用いて保護を訴えたこと――本来は動植物を研究する「生態学」を意味した語を、環境保護の意味に広げてとらえたこと――を「時代を先取りしていた」と評価している(下記出典19)。

公正を期して:研究上の異論も併記しておく

ただし、熊楠を無条件に「現代の環境思想の完成形」として讃えるのは、実践者として誠実ではない。学術的な異論も存在する。

応用森林学会での議論では、次のような指摘がなされている。熊楠が合祀反対運動で用いた論理は、「神社」が廃されることで地域社会の習慣や伝統が崩壊し、「神社林」が伐採されることで貴重な生物が滅ぶというもので、神社と神社林は分離して論じられていた。自然と人間の生活の関係についてはすでに主張・認識されていたことを利用したにとどまり、「エコロジー」の語も当時外国で成立していた「生態学」を意味する程度のものだった、という見方である(下記出典20)。

この批判は重要である。というのも、この批判こそが熊楠の議論の実践的な強さを逆照射しているからだ。

熊楠は「自然が大切だから守れ」という一本の理屈で押したのではない。「地域社会の伝統が壊れる」という社会の論理と、「貴重な生物が滅ぶ」という理科の論理を、二本立てで並べた。 純粋な思想としては未分化かもしれないが、実際に政策を止めるための議論としては、これは極めて有効な組み立てである。

そして、実際に止まった。熊楠の情熱は次第に世論を動かし、1912年(明治45年)3月には和歌山県選出の衆議院議員・中村啓次郎が本会議で合祀反対の質問を1時間余りにわたって行い、貴族院議員の徳川頼倫も尽力した。大正に入ると不合理な合祀は次第に行われなくなり、約10年後の1920年(大正9年)、貴族院で「神社合祀無益」が決議されて終息した(下記出典17)。


6. 1920年という符合

ここで、日付を並べてみてほしい。

出来事
1906年(明治39年)神社合祀政策が始まる
1909年ごろ〜熊楠が反対運動を開始
1911年(明治44年)『南方二書』が配布される
1920年(大正9年)貴族院で「神社合祀無益」が決議され、合祀が終息
1920年(大正9年)11月1日明治神宮鎮座。10万本の献木による「100年の森」が始動

同じ年である。

一方で、全国の鎮守の森を伐り倒していた政策がようやく止まり、もう一方で、東京の荒れ地に150年計画の森が植えられた。「森を壊す近代」と「森を設計する近代」が、1920年という一点で交差している。

これは偶然の一致だろうが、教材としては極上の偶然だと思う。近代日本が自然に対してどう振る舞ったかを、たった一つの年号で両面から見せられる。


7. 教室でどう扱うか【理科×社会の授業設計メモ】

現場で使うことを前提に、実践のかたちに落としておく。

[理科]

  • 参道の内と外で気温・湿度・地表面温度を実測する(赤外放射温度計があると差が劇的に出る)。芝生の上と樹林の下でも測り分けると、樹林特有の効果が見える。
  • 蒸散を「気化熱」として計算させる。1本の樹が1日に放出する水の量から、奪われる熱量をおおまかに見積もる。
  • 遷移(変移)を扱う。365種→234種という淘汰を「森が失敗した」ではなく「土地に合う組み合わせが選ばれた」と読み替えさせる。

[社会]

  • 神社合祀を「行政効率化」の事例として扱う。1町村1社という統合には統合の合理性があったことを、まず認めさせる。そのうえで、そこで失われたものを列挙させる。
  • 熊楠の反対論を「理科の論拠」と「社会の論拠」に分解させる。政策を動かすには何が必要だったのかを議論させる。
  • 明治神宮外苑の樹木をめぐる近年の議論と接続する。100年前の論点は、いまも現在進行形である。

[横断]

  • 「あなたが150年後の絵を描いて何かを始めるとしたら、それは何か」を書かせる。本郷高徳の林相変移予想図(下記出典3)を実際に見せてから問うと、生徒の答えの質が変わる。

8. 結論:イノベーションは要る。しかし土台は自然と歴史である

最初の思い込みに戻る。

サステナビリティは、まだない技術で難題を解決することだ――そう思っていた。いまはこう考えている。

イノベーションは必要である。気候変動の緩和に技術は不可欠だ。しかしそれは「土台の上に立つもの」であって、土台そのものではない。

土台にあたるのは、二つだと思う。

ひとつは自然。壊さなければ自分で回復する系を、致命傷を負わせずに手渡すこと。国連が定義したNbSも、要はそういう話である。後悔の少ない選択肢を先に確保しておくこと。

もうひとつは歴史。100年、150年という単位でものを考える作法は、発明するものではなく、継承するものである。明治神宮の林学者たちは150年後の森を描いた。南方熊楠は、何百年も守られてきた鎮守の森を、次の世代に渡そうとして監獄に入った。彼らの時間感覚は、私たちが四半期や単年度で物事を測る癖よりも、はるかにサステナブルだ。

熊楠は、粘菌という、目を近づけなければ見えないものを一生をかけて見つめ続けた人である。同時に、政策という、社会の一番大きなものに体ごとぶつかった人でもある。極小の生物と、国家の制度を、同じ一つの視野に収めていた。

サステナビリティに必要なのは、たぶんその視野の広さだ。顕微鏡と歴史書を同時に持つこと。

子どもたちに残すべきものを考えるなら、まず森を残すこと。そして、なぜ残すのかを説明できる歴史を、一緒に残すこと。

――サステナビリティは、南方熊楠に学べる。


出典一覧

明治神宮の森・造営について

  1. 明治神宮「Q&A」 https://www.meijijingu.or.jp/faq/
  2. 明治神宮の杜(Google Arts & Culture) https://artsandculture.google.com/story/2AWxBdB88HOILQ?hl=ja
  3. 濱野周泰ほか/nippon.com「明治神宮の森:林学者や造園家によるナショナルプロジェクト」 https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00866/
  4. ハイポネックス「Plantia」/明治神宮の森 100年目の今 https://www.hyponex.co.jp/plantia/plantia-12275/
  5. 「【明治神宮】永遠の森をつくった熱情の人・本多静六」(ほんのひととき) https://note.com/honno_hitotoki/n/n6acc9b574942
  6. 日本経済新聞「明治神宮の森、動植物2840種を確認 40年ぶり調査」(2013年12月) https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2602E_W3A201C1CR0000/

社殿の戦災と復興

  1. Wikipedia「明治神宮」(社殿の造営・再建の項) https://ja.wikipedia.org/wiki/明治神宮
  2. 明治神宮崇敬会「明治神宮崇敬会について」 https://meijijingusukeikai.or.jp/meijijingusukeikai.html

クールアイランド効果

  1. 三上岳彦ほか「都市内緑地のクールアイランド現象」(地理学評論) https://www.jstage.jst.go.jp/article/grj1984a/67/8/67_8_518/_article/-char/ja/
  2. 環境省「皇居におけるクールアイランド効果の観測結果について」(報道発表資料) https://www.env.go.jp/press/8870.html
  3. 国際環境NGOグリーンピース「なぜ明治神宮外苑の1,000本の樹木を切ってはいけないのか?」 https://www.greenpeace.org/japan/news/story_59963/

自然を活用した解決策(NbS)

  1. 環境省『令和5年版 環境・循環型社会・生物多様性白書』第1部第2章第3節「自然再興(ネイチャーポジティブ)」 https://www.env.go.jp/policy/hakusyo/r05/html/hj23010203.html
  2. 環境省「自然を活用した解決策(NbS)」 https://www.env.go.jp/nature/biodiversity/nbs.html
  3. 森林総合研究所「自然を活用した解決策(NbS)とマングローブ保全・再生の動向」 https://www.ffpri.go.jp/pubs/chukiseika/documents/5th-chuukiseika26-7.pdf
  4. 環境省「第5回国連環境総会再開セッション(UNEA5.2)の結果について」 https://www.env.go.jp/press//110635.html

南方熊楠と神社合祀

  1. 南方熊楠記念館「南方熊楠紹介」 https://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp/kumagusu
  2. 南方熊楠記念館「神社合祀反対運動」 https://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp/kumagusu/life/goushihantai
  3. 南方熊楠記念館「神社合祀反対運動とエコロジー」 https://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp/exhibition-guide/corner4/corner4-2
  4. 日本経済新聞「エコロジー思想の先駆者 南方熊楠 生誕150年(3)」 https://www.nikkei.com/article/DGXLASHD01H4C_S7A300C1960E00/
  5. 「南方熊楠の環境保護に関する思想」(応用森林学会大会発表/J-STAGE) https://www.jstage.jst.go.jp/article/applfor/8/0/8_KJ00008197610/_article/-char/ja/
  6. Weblio辞書「神社合祀令」(Wikipedia「神社合祀」に基づく) https://www.weblio.jp/content/神社合祀令
  7. コトバンク「神社合祀」執筆者:大濱 徹也、宇野 正人 https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E5%90%88%E7%A5%80-298629#goog_rewarded

さらに読むなら

  • 今泉宜子『明治神宮:「伝統」を創った大プロジェクト』新潮社、2013年
  • 武内善信『闘う南方熊楠――「エコロジー」の先駆者』勉誠出版、2012年
  • 明治神宮編『鎮座百年記念 第二次明治神宮境内総合調査報告書』2013年

本記事の記述は上記の公開情報にもとづき、筆者が要約・再構成したものです。引用元の文章をそのまま転載することは避け、内容は筆者の言葉で記述しています。数値・年号については出典間で表記の揺れがある箇所があり、その旨は本文中に注記しました。