<2026年8月15日 訂正更新について>
本記事は、シリーズ第8稿『「調べる」から「判断する」へ。AI時代の知のつくり方』で実施した出典監査の結果を反映し、一部を訂正しています。訂正箇所は元の記載を取消線で残したうえで、直下に訂正文を記載しています。
1トン燃やして、戻すのに3トン
――エントロピーで読み解く「不可逆性の倫理」、なぜ壊すのは一瞬で戻すのに100年かかるのか
【本記事について】シリーズ6本目です。第2稿「明治政府は計算していた」で、私は費用便益分析に欠けていた項目のひとつとして「不可逆性とオプション価値」を挙げました。ただし、それは経済学の概念として扱っただけで、なぜ不可逆なのかを物理から説明していません。本稿はその宿題への回答です。前回の総括(第5稿)で残った空白マス「物理学×倫理・思想」を、正面から埋めにいきます。
0. 問題設定:「不可逆」と書いたが、説明していなかった
第2稿で私はこう書いた。
森を伐るのは1年でできる。戻すには100年かかる。この非対称性が、計算式に入っていない。
読み返すと、これは観察であって説明ではない。 「そういうものだ」と言っただけだ。なぜそうなるのか、どの程度なのか、例外はあるのか——何ひとつ詰めていない。
実践者としては、ここを詰めなければならない。「不可逆だから守れ」は、精神論と区別がつかないからである。
そこで本稿の問いはこうなる。
破壊と回復の時間的非対称は、物理的に必然なのか。必然だとして、それは何倍なのか。そしてそれは、倫理に何を要求するのか。
先に結論を書く。必然である。 そして数字を出すと、想像よりはるかに苛烈だった。
1.【物理】熱力学第二法則を、正確に述べる
最初に、この分野における誤用を考察しておく。
1-1. 「エントロピーは必ず増える」は、条件つきの命題である
Wikipedia「熱力学第二法則」によれば、この法則にはいくつかの同値な表現があり、クラウジウスの原理は低温の物体から高温の物体へ熱は自然に移動しないというもの、トムソンの原理は一つの熱源から正の熱を受け取りこれをすべて仕事に変える以外に外界に何の変化ももたらさない過程は実現不可能というものである。そしてエントロピー増大則として、孤立系のエントロピーは減少しないという形で表現される(下記出典1)。
「孤立系の」という限定が決定的である。 ここを落とすと、次の誤りに直行する。
誤り:エントロピーは増える一方だから、森は放っておけば必ず劣化する。だから人が管理しなければならない。
これは物理的に間違いである。 地球は孤立系ではない。太陽から低エントロピーの光を受け取り、宇宙空間へ高エントロピーの赤外線を捨てている。開放系では、外部とやりとりすることで局所的に秩序を増やせる。
1-2. 森は「散逸構造」である
この局所的な秩序形成を理論化したのが、イリヤ・プリゴジンの散逸構造である。
Wikipedia「散逸構造」によれば、散逸構造とは熱力学的に平衡でない状態にある系において、エントロピーが極大でない状態で局所的に安定に存在する構造をいう。エネルギーの散逸が起こることによって定常的に維持される構造であり、この理論により1977年にプリゴジンはノーベル化学賞を受賞した。生命現象がその例とされる(下記出典2)。
森は散逸構造である。 太陽エネルギーを流し込むことで、CO₂と水という散らばった材料から、セルロースとリグニンという高度に秩序だった構造を組み上げている。放っておけば劣化するのではない。放っておいても、エネルギーが流れているかぎり秩序は増える。
第1稿で書いた明治神宮の森は、まさにこれだった。林学者たちは150年後の林相を予想図に描き、植えたあとは天然更新に委ねた。人が働くのではなく、太陽に働かせる設計である。
1-3. では、なぜ非対称が生まれるのか
ここが本稿の物理的な核心である。
秩序の破壊と構築は、どちらも第二法則に反しない。 破壊は自発的(全体のエントロピーが増える)。構築も、外部から低エントロピーのエネルギーを取り込み、そのぶん以上のエントロピーを外へ捨てるかぎり可能である。
違うのは、必要な条件の数である。
| 破壊 | 構築 | |
|---|---|---|
| 駆動力 | 不要(自発的に進む) | 必要(エネルギー流入が要る) |
| 経路 | 無数にある(どう壊れてもよい) | 極めて限られる(正しい順序が要る) |
| 速度の律速 | 反応速度そのもの(速い) | エネルギー供給速度(遅い) |
| 情報 | 失うだけ(設計図は不要) | 設計図が要る(遺伝情報・種子・土壌微生物) |
「経路の数」がポイントである。 秩序ある状態は、微視的な配置の数が少ない。無秩序な状態は、配置の数が圧倒的に多い。だから壊れる方向へは無数の道があり、組み上がる方向へはごく細い道しかない。確率が桁違いに違う。
そして構築の速度は、エネルギーの供給速度に縛られる。森の場合、それは日射である。日射量は増やせない。ここに、回復速度の物理的な上限がある。
[筆者の整理]非対称の正体を一行で書くと、こうなる。
破壊の速度は反応速度で決まり、構築の速度はエネルギー流入速度で決まる。両者は桁が違う。
2.【物理×経済】木材1トンの「往復切符」を計算する
抽象論はここまでにして、数字を出す。最もクリアな題材は、木を燃やして、そのCO₂を大気から回収して戻す、という往復である。
2-1. 混合のエントロピーという「見えない壁」
木を燃やすと、炭素は二酸化炭素になって大気に散る。この「散る」が曲者である。
大気中のCO₂濃度は現在およそ425 ppm、つまり0.04%程度にすぎない。この極めて薄い状態から取り出すには、混合のエントロピー分の仕事が要る。
[筆者試算]400 ppmのCO₂を空気から完全に分離する理論最小仕事
混合エントロピーは ΔS = −R[x ln x + (1−x) ln(1−x)]。x = 400×10⁻⁶ を代入すると、空気1 molあたり 0.0293 J/K。298 Kで TΔS = 8.74 J/mol-air。これをCO₂ 1 molあたりに換算すると 約21.9 kJ/mol-CO₂ となる。
(筆者試算。R = 8.314 J/(mol·K)、T = 298 K)
この値は、専門文献の数字とよく一致する。全米アカデミーズの報告書は、大気中のCO₂濃度を400 ppm・25℃と仮定した場合、その75%を98%純度で回収する最小仕事は 0.45 GJ/tCO₂(20 kJ/mol-CO₂)であると述べている(下記出典3)。House らの研究も同様に、400 ppmの空気を200 ppmと99%純度のCO₂に分離する理論最小仕事は約 20 kJ/mol-CO₂ としている(下記出典4)。
高校の化学と物理で計算できる値が、そのまま最先端の脱炭素技術の下限を決めている。 ここは教材として非常に強い。
ただし、二つの値は厳密には別の操作を指している。 筆者試算の21.9 kJ/molは「完全分離」の値、文献の20 kJ/molは「75%を98%純度で回収」の値である。近い値になるのは、分離仕事の大半が希薄側(400 ppm→数%)の濃縮で決まるためであり、偶然の一致ではないが、同一の量でもない。 教材として使う際は、この区別を明示したい。
2-2. しかし実機は、その20倍を食う
問題は、この理論値に誰も近づけないことである。
全米アカデミーズの報告書によれば、液体溶媒方式の直接空気回収(DAC)の実際の仕事は 8.2〜11 GJ/tCO₂ であり、エクセルギー効率は 4.1〜6.2% にとどまる(下記出典3)。
近年のレビューも同じ結論を示す。DACの最小エネルギー需要は熱力学第二法則によって決まり、空気からCO₂を分離する理論限界は約 0.43 GJ/tCO₂ である一方、現行の温度真空スイング吸着などのプロセスは 5〜10 GJ/tCO₂ を必要とし、これは最小の熱力学的ペナルティのおよそ 25〜50倍にあたる(下記出典5)。
ACS Engineering Au 誌の論文は、この事情を端的に整理している。DACは約400 ppmのCO₂を理論最小 20 kJ/mol で濃縮するが、現実の技術は効率5%程度で 約400 kJ/mol-CO₂ を要する。これは約2,500 kWh/tCO₂に相当し、3 MWの大型風力タービンを1時間動かして得られるエネルギーに等しい。そして低濃度の空気からCO₂を集めることに伴うエネルギーとコストは、除去できない熱力学的ペナルティであると述べている(下記出典6)。
「除去できない(cannot be eliminated)」——ここが本稿の物理的な急所である。 技術革新で効率は上げられる。だが20 kJ/molという床は、熱力学が決めている。イノベーションが下回れない線が存在する。
2-3. そして、往復切符の値段が出る
ここまでの数字を、木材1トンに当てはめる。ただし、ここには熱力学において留意すべき点があるので、先に処理しておく。
[重要な区別]エネルギーの「量」と「質」は違う。
木材を燃やして出てくる18 GJは熱である。一方、DACに必要とされる8.2〜11 GJ/tCO₂は、仕事(電力等価)として扱われている。根拠は二つある。
- 全米アカデミーズは、理論最小 0.45 GJ/t をこの実機値で割ってエクセルギー効率 4.1〜6.2% を算出している(0.45÷11 = 4.1%、0.45÷8.2 = 5.5%)。つまりこの実機値を仕事とみなして比較している(下記出典3)
- ACS Engineering Au 誌は 400 kJ/mol を約2,500 kWh/tCO₂ と換算し、石炭火力が1 molのCO₂を出して発電する電気158 kJ、天然ガス火力の396 kJ と直接比較している(下記出典6)。これは電力どうしの比較である
熱をそのまま仕事にはできない。 カルノーの制約(熱効率は利用する温度差だけで制限され、決して100%には届かないという絶対的限界)があるからだ。したがって18 GJの熱と15〜20 GJの仕事を単純に並べるのは、比較として不正確である。
[筆者試算]木材1トンを燃やす/そのCO₂を大気から回収する
前提:乾燥木材の炭素含有率50%、発熱量18 GJ/t(いずれも一般的な概数)。
| 項目 | 値 |
|---|---|
| 燃焼で放出される熱 | 18 GJ |
| 発生するCO₂ | 1.83 t |
| 大気から回収する理論最小仕事 | 0.82 GJ |
| 実機DACに要する仕事(8.2〜11 GJ/tCO₂) | 15.0〜20.2 GJ |
この15〜20 GJの仕事を、木材でまかなうと何トン要るか。 供給の形で答えが変わる。
| ケース | 前提 | 必要な木材 |
|---|---|---|
| A:すべて熱で直接供給 | 必要温度の熱をそのまま使える(熱機関を介さない) | 0.8〜1.1 t |
| B:発電してから使う(効率30%) | 木質バイオマス発電の一般的な水準 | 2.8〜3.7 t |
| B’:同(効率25%/35%) | — | 2.4〜4.5 t |
(筆者試算。桁の議論としてのみお読みください)
どちらが実態に近いか。 上に示したとおり、引用元の文献はいずれもこの数値を仕事・電力として扱っている。したがってケースBの「約3トン」が、文献の枠組みに忠実な読み方である。
ただしケースAが完全な絵空事というわけでもない。液体溶媒方式のDACはカ焼炉で高温熱を大量に使うため、その熱を燃焼から直接供給できれば、熱機関の損失を回避できる余地はある。 実際のプラント設計は両者の中間に落ちると思われる。
したがって本稿の結論は、こう書くのがより正確になる。
木材1トンを燃やして出たCO₂を、いまの技術で大気から回収し直すには、木材1〜3トン分のエネルギーが要る。文献の枠組みに素直に従えば、3トン側である。
1トン燃やして、戻すのに3トン。 これが本節冒頭のタイトルの意味だ。
2-4. この計算が本当に言っていること
誤解のないように書く。これは「バイオマス燃焼が無意味だ」という主張ではない。 持続的に育てた森を燃やせば、CO₂は次の森が吸う。DACで回収する必要はない。
言いたいのは、そこではない。
理論最小は 0.82 GJ、実機は 15〜20 GJ。この差 20倍こそが、非対称の正体である。 そして理論最小の 0.82 GJ ですら、燃焼で得た熱の4.6%に相当する仕事を無条件で持っていく。
さらに重要なのは、この 0.82 GJ は「エネルギーが足りない」から生じるのではないという点だ。燃焼で18 GJも出ている。エネルギーの量は余っている。
足りないのはエネルギーではない。「集まっている」という状態である。
散らばったものを集め直すのに要る仕事——それが混合のエントロピーだ。破壊とは、エネルギーを失うことではなく、秩序を失うことである。
そして森は、これを無料でやっている。 日射という低エントロピーのエネルギーを使って、425 ppmのCO₂を木材という高濃度の固体に変換している。第1稿で「NbSは後悔の少ないアプローチ」と書いたが、その物理的な裏づけがここにある。森は、人類が最も苦手とする作業を、燃料代ゼロでこなす装置である。
[補論]「強いサステナビリティ」という経済学の概念に接続する
環境経済学には「失われた自然資本は、人工資本(技術)で代替できる」とする「弱いサステナビリティ」という立場がある。だが、物理学はこの見立てを退けているかもしれない。 本節で議論したように、森が燃料代ゼロでこなしている炭素固定を、人工資本(DAC)で代替しようとすれば、回収分の3倍の木材を燃やしてエネルギーを注ぎ込まねばならない。人工資本は自然資本の完全な代替にはなりえない。 ここに、「強いサステナビリティ(自然資本そのものを維持しなければならない)」を支持する熱力学的な証明があるとも考えられる。
3.【物理×歴史】シリーズの事実を、時間比で並べ直す
さて、ここでシリーズ5本の事実を、すべて「破壊にかかった時間 ÷ 回復にかかる時間」で並べてみる。同じ物差しに載せると、風景が変わる。
[筆者試算]破壊と回復の時間非対称(オーダー比較)
| 事例 | 破壊 | 回復 | 比 |
|---|---|---|---|
| 明治神宮:社殿の焼失(1945)と森の造成 | 空襲の一夜 | 150年(林相予想図の時間軸) | 約5万倍 |
| 彌彦神社:社殿再建と社叢 | 火災(1912) | 樹齢400〜500年の古杉・古欅 | 約100万倍 |
| 表土:豪雨による流出と土壌生成 | 1回の降雨イベント | 1 cmの生成に数百年 | 約10万倍 |
| 神社合祀:社叢の伐採(1906〜)と回復 | 数年 | 数十〜数百年 | 約数十倍 |
| 下北沢:補助54号線の都市計画 | ― | 1946年決定→2028年度完成予定 = 82年 | ― |
(筆者試算。回復年数は各記事で引用した文献の値および一般的なオーダーに基づく粗い概算であり、精密な推定ではない)
この表を作って、最も驚くべきものは彌彦神社の行である。
第3稿で書いたとおり、彌彦神社は1912年に社殿が焼失し、伊東忠太らの設計で1916年に再建された。建物は4年で戻った。 だが背後の社叢には、樹齢400〜500年の古杉・古欅がある。もしあの森を伐っていたら、再建に450年かかっていた。
同じ境内で、復旧に要する時間が100倍違う資産が並んでいる。 第1稿から書いてきた「建物は焼け、森は残った」という非対称は、情緒的な感慨ではなく、熱力学的な必然の帰結だったことになる。
補足:土壌の話を入れておく
土壌は、この議論で最も鋭い例と思われる。西尾道徳の環境保全型農業レポートによれば、文献から収集した土壌侵食の実験記録の回帰分析で、年間降水量1,400 mmの地域における侵食速度は平均で約 10 t/ha であり、米国農務省は土壌の種類によって異なるものの、土壌生成速度を考慮した持続可能な土壌侵食許容量を 4.9〜12.4 t/ha としている(下記出典7)。
「土壌生成速度を考慮した許容量」という概念が存在すること自体が重要である。 つまり侵食は避けられないので、生成が追いつく範囲でしか許さないという設計になっている。これは第2稿で書いた「ストックを取り崩してフローに計上する」の裏返しであり、物理的な回復速度を上限として、利用速度を決めるという思想だ。
Wikipedia「土壌流出」の記述によれば、土壌流失は森林の伐採や過度の放牧などにより地表を覆っていた植物層が失われ地表が露出した場合に発生し、世界の5分の1から3分の1に及ぶ地域での農地の生産性低下の原因になっているとみられる(下記出典8)。
4.【生物×物理】ただし「時間をかければ戻る」も、間違いである
ここで、話をもう一段厳しくしなければならない。
これまでの議論は「回復は遅い」という話だった。だが実際には、遅いだけでなく、戻り切らない場合がある。
4-1. レジームシフトとヒステリシス
旭硝子財団の環境用語集は、この現象を的確に定義している。生態系におけるレジームシフトとは、ある安定した状態から別の安定した状態へと生態系の構造や機能が急激に変化する現象を指し、「カタストロフィックシフト」とも呼ばれる。生態系が双安定性をもつ場合、たとえ現在が健全な状態であっても、ある条件下では環境のわずかな変化が引き金となり望ましくない状態へ急速に移行することがある。そして——この変化はしばしば非可逆的で、環境条件が元に戻っても、もとの健全な状態に回復しない場合がある(下記出典9)。
「環境条件が元に戻っても、元に戻らない」。 これがヒステリシス(履歴現象)である。
[筆者の整理]三段階の不可逆性
| 段階 | 内容 | 例 |
|---|---|---|
| ① 時間の非対称 | 戻るが、圧倒的に遅い | 森林の再生(数十〜数百年) |
| ② 履歴依存(ヒステリシス) | 条件を戻しても、同じ経路では戻らない | 富栄養化した浅い湖の透明度 |
| ③ 完全な不可逆 | 原理的に戻らない | 種の絶滅 |
第2稿で「不可逆性」と一語で書いたものは、実は三段階あった。 そして意思決定において重みが違う。①は時間とコストの問題だが、③は補償が原理的に不可能である。
なぜ「種の絶滅」は完全な不可逆(③)なのか。それは第1章の表で示した、秩序構築に不可欠な「情報(遺伝子という設計図)」そのものが失われるからである。①や②の段階では、時間はかかっても設計図(種子や土壌微生物)が残っていれば太陽エネルギーを使って秩序を再構築できる。しかし設計図が焼失すれば、どれほどエネルギーを注いでも二度と同じ秩序は組み上がらない。これが絶対的な不可逆性の物理的根拠である。
4-2. 「回復債務」という概念
そして、①ですら額面どおりには戻らない。ここに決定的な研究がある。
Moreno-Mateos らが Nature Communications 誌に発表した研究は、世界の3,035の調査プロットのデータを用いて、回復過程で生じる生物多様性と機能の暫定的な減少——著者らが「回復債務(recovery debt)」と呼ぶもの——を定量化した。参照水準と比較すると、回復途上の生態系は年間で生物の個体数について46〜51%、種多様性について27〜33%、炭素循環について32〜42%、窒素循環について31〜41%の赤字を計上している。この結果は生物群系を越えて一貫していた。そして著者らは、たとえ完全な回復に到達したとしても、その間に回復債務が累積すると結論づけている(下記出典10)。
同論文は続けてこう述べる。そうした状況下では、生態学的復元やオフセットによって機能の劣る生態系の量を増やすことは、生態系の保護に代わる手段としては不十分である(下記出典10)。
これは、生物多様性オフセットという制度の根幹に対する批判とも言える。 「ここを壊す代わりに、あそこを再生します」という取引は、再生が完了するまでの数十年ぶんの赤字を勘定に入れていない。
さらに時間スケールの見積もりも厳しい。オックスフォード大学の Moreno-Mateos の研究紹介によれば、生態系の回復に関する実験的研究はせいぜい数十年の期間を扱うにすぎないが、個体群や群集を含む生態系全体の回復は、古生態学の記録によれば数世紀から数千年の期間を要する(下記出典11)。
数世紀から数千年。 第2稿で私は「森を伐るのは1年、戻すには100年」と書いた。100年でも楽観的すぎた可能性がある。
5.【物理×倫理】ここから本題:非対称は、倫理に何を要求するか
物理は「そうなっている」としか言わない。「だからどうすべきか」は物理から出てこない。 ここからが倫理の仕事である。
5-1. 割引率を、物理側から撃つ
<2026年8月15日 追記:本稿のタイトル「割引率を選ぶのは倫理」について。
経済学における割引率は、将来価値を現在価値に換算するための率である。「選ぶのは倫理」というのは、その率の設定に「どの世代をどの程度重視するか」という価値判断が含まれる、という含意を強調した筆者の表現であり、経済学の教科書的定義ではない。
一方、後半の「割り引かれる時間Tを決めるのは物理」は、樹木の成長速度・土壌の生成速度・海洋深層循環の時定数といった物理量がTを規定するという意味であり、こちらは事実の記述である。>
第2稿で最も重い論点は、社会的割引率だった。国土交通省の技術指針は、長期にわたる国債等の実質利回りを参考値として社会的割引率を4%と設定している(下記出典12)。
[筆者試算]回復に T 年かかる資産の、回復後の便益の現在価値係数
| 割引率 | T=30年 | T=100年 | T=150年 | T=450年 |
|---|---|---|---|---|
| 1% | 0.7419 | 0.3697 | 0.2248 | 0.0114 |
| 2% | 0.5521 | 0.1380 | 0.0513 | 0.0001 |
| 4%(現行) | 0.3083 | 0.0198 | 0.0028 | ほぼ0 |
(筆者試算。現在価値係数 = 1/(1+r)^T)
第2稿ではこの表を「便益の減衰」として示した。本稿では読み方が変わる。
T は、恣意的なパラメータではない。物理が決めている値である。
- 森の再生に150年かかるのは、日射量と光合成速度が決めている
- 樹齢450年の社叢の再建に450年かかるのは、樹木の成長速度が決めている
- 土壌1 cmの生成に数百年かかるのは、風化と生物作用の速度が決めている
つまり割引率4%は、「物理が決めた回復時間」を、ほぼ確実にゼロと評価する装置として働く。
彌彦神社の社叢(T=450年)は、割引率4%では現在価値がほぼ完全に消える。 数式の上では、あの森を伐っても失うものは何もない。
5-1-2. ただし、経済学の側も手をこまねいてはいない
ここで公平を期しておきたい。「経済学は長期を扱えない」と切り捨てるのは、事実に反する。
英国財務省の『グリーンブック』は、30年を超える長期の影響をもつ事業には、一定の割引率ではなく逓減するスケジュールを用いるべきであると明記している(下記出典23)。その補足ガイダンスによれば、実務家は1〜30年目に標準の社会的時間選好率3.5%を、31〜75年目に3.0%を用いる(下記出典24)。以降のスケジュールも公表されており、76〜125年で2.5%、126〜200年で2.0%と逓減していく(下記出典25)。逓減の根拠は、将来のパラメータの値そのものが不確実だからである(下記出典24)。
さらに驚くべきことに、英国には「世代間の富の移転と社会的割引」という専用の補足ガイダンスが存在する。同ガイダンスは、影響が50年を超える超長期におよび、かつ実務上あらゆる意味で不可逆的な世代間の富の移転を伴う提案を評価する場合に適用される(下記出典26)。
「irreversible(不可逆的)」という語が、財務省の実務ガイダンスの適用条件に明記されている。 本稿がここまで論じてきたことは、英国では制度として実装済みなのである。
[筆者試算]逓減スケジュールと一定4%の差
| 回復時間 T | 英国グリーンブック(逓減) | 日本の一定4% | 倍率 |
|---|---|---|---|
| 30年 | 0.3563 | 0.3083 | 1.2倍 |
| 100年 | 0.0508 | 0.0198 | 2.6倍 |
| 150年 | 0.0167 | 0.00279 | 6.0倍 |
| 450年 | 0.0003 | 0.00000002 | 約1万5千倍 |
(筆者試算。英国側は3.5%(1〜30年)/3.0%(31〜75年)/2.5%(76〜125年)/2.0%(126〜200年)/1.5%(201〜300年)/1.0%(301年〜)で複利計算。日本側は一定4%)
T=450年で1万5千倍の差がつく。 逓減方式で見れば、彌彦の社叢の現在価値は消えない。「ゼロと評価される」のは、日本の運用に固有の問題である。
5-1-3. それでも残る、物理からの反論
では逓減割引率を導入すれば解決するのか。半分は解決する。半分は残る。
残る半分はこうだ。逓減スケジュールも、なお T を「割り引かれる長さ」としてしか扱っていない。 T が大きいほど価値が減る、という向きは変わらない。
だが本稿の議論からすると、T は減点材料ではなく、意思決定の性格そのものを変える変数である。
- T が評価期間より短い → 通常の投資判断。失敗しても取り返せる
- T が評価期間より長い → その決定は、決定した本人が結果を見届けられない
後者は、経済的な判断ではなく、世代間の贈与または収奪につながる。 割引率をいくつにしても、この性格は変わらない。
さらに、T そのものは交渉できない。 樹木の成長速度も、土壌の生成速度も、海洋の深層循環の時定数も、割引率の設定とは無関係に決まっている。経済学が精緻化できるのは「T をどう評価するか」であって、「T をいくつにするか」ではない。
[筆者の提案]実務的なルールを、一段慎重に書き直す。
① 回復時間 T を先に見積もる。
② T が30年を超えるなら、一定割引率の単独使用をやめ、逓減スケジュールを併記する(英国グリーンブックの水準は公開されている)。
③ T が評価期間を超えるなら、費用便益分析だけで結論を出さない。世代間倫理の枠組みを併用する。
③が本稿の主張である。 ①②は、すでに他国が制度化している。日本の実務が追いついていないだけとも言える。
5-2. 実は、国際法にはすでに書き込まれていた
そして——ここが整理していて一番のポイントとも思われた——「不可逆性」は、すでに国際環境法の中心概念になっている。
1992年の環境と開発に関するリオ宣言の第15原則は、環境を保護するため予防的方策は各国によりその能力に応じて広く適用されなければならず、深刻な、あるいは不可逆的な被害のおそれがある場合には、完全な科学的確実性の欠如が、環境悪化を防止するための費用対効果の大きい対策を延期する理由として使われてはならないと定めている(下記出典13、下記出典14)。
この一文を、本稿の文脈で読み直してほしい。
- 「不可逆的な被害のおそれ」——回復時間 T が極めて大きい、あるいは無限大の場合
- 「完全な科学的確実性の欠如」——T を正確に見積もれない場合
- 「延期する理由として使われてはならない」——不確実性は、行動しない口実にならない
[情報・統計×倫理]ここには統計的な含意がある。
通常の意思決定では、証明責任は「規制を求める側」にある。害があると示せなければ、行為は許される。だが第15原則は、不可逆性が疑われる場合にかぎって、この配分を反転させている。
なぜ反転が正当化されるか。誤りの非対称性があるからだ。
| 実際は可逆だった | 実際は不可逆だった | |
|---|---|---|
| 規制した | 過剰規制のコスト(回復可能) | 正しい判断 |
| 規制しなかった | 正しい判断 | 回復不能な損失 |
この表の右下だけが、他の三つと性質が違う。 他の三つは事後的に修正できるが、右下だけは修正できない。期待値が同じでも、修正可能性が違うなら、同じ扱いをすべきではない。 これが予防原則の統計的な骨格である。
EICネットの環境用語集は、この点を明確に区別している。予防原則は、因果関係が科学的に証明されるリスクに関して被害を避けるため未然に規制を行う「未然防止」とは意味的に異なると解釈される(下記出典14)。
証明を待つか、待たないか。その分岐点にあるのが「不可逆かどうか」である。
5-3. ハンス・ヨナス『責任という原理』
倫理学の側からも、同じ構造に到達した人がいる。
ハンス・ヨナス『責任という原理――科学技術文明のための倫理学の試み』(加藤尚武監訳、東信堂)は、今や地球の全生物圏を侵し尽くそうとする現代技術の暴走を人類は制御できるのかと問い、科学文明が内包する発展至上主義を根底から批判して、存在の未来に対する責任こそ現代における基底倫理であると論証した書である(下記出典15)。
ヨナスの命法は、慶應義塾大学出版会が紹介する『ハンス・ヨナス 未来への責任』の試し読みで引かれている。あなたの行為の影響が、地上における本当に人間らしい生き方の永続と両立するように、行為せよ(下記出典16)。
そして、ヨナスの責任概念の構造を、兼松誠の論考は次のように整理している。ヨナスのいう責任とは、力のある者が力のないものに対して一方的に負うものである。将来の世代の命運は我々の行動如何にかかっているので、我々は未来世代に責任を負っている(下記出典17)。
「一方的に」という語が、本稿の議論と正確に噛み合う。
なぜ一方的か。相互性が成立しないからである。 未来世代は私たちに何も返せない。交渉もできない。抗議もできない。この非対称は、まさに時間の不可逆性から生じている。
[筆者の整理]物理の非対称と、倫理の非対称は同型である。
| 物理 | 倫理 | |
|---|---|---|
| 非対称の源 | 時間の向き(第二法則) | 世代間の力関係 |
| 一方向性 | 壊すのは速く、戻すのは遅い | 現在は未来に影響できるが、逆はない |
| 帰結 | 回復コストが非対称 | 責任が一方的に発生する |
熱力学が時間に向きを与え、その向きが倫理に非対称な義務を与える。 これが本稿で最も言いたかったことである。
5-4. 経済学は、半世紀前にここに到達していた
なお、この接続を最初に本格的に試みた経済学者がいる。
ニコラス・ジョージェスク=レーゲンは、1971年の主著『エントロピーの法則と経済過程』において、すべての天然資源は経済活動に投入されると不可逆的に劣化すると論じた。彼の仕事は生態経済学が経済学の独立した下位分野として確立される上で決定的なものだった(下記出典18)。同書の中心テーマは、経済過程は数理経済学が伝統的に表現してきたような力学的な類比ではなくエントロピー的な過程であるというもので、経済的な希少性はエントロピー法則の反映であるとされる(下記出典19)。
[物理学×歴史学]この年号を並べると、面白いことが見えてくる。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1865年 | クラウジウスがエントロピーを定義 |
| 1971年 | ジョージェスク=レーゲン『エントロピーの法則と経済過程』 |
| 1977年 | プリゴジンが散逸構造でノーベル化学賞 |
| 1979年(原著) | ヨナス『責任という原理』 |
| 1992年 | リオ宣言第15原則(不可逆性が国際法に明記) |
1970年代に、物理・経済・倫理が同時にこの問題へ収束している。 これは偶然ではないだろう。高度成長の環境負荷が可視化された時期と重なる。そして半世紀たった今も、費用便益分析の実務は割引率4%のままである。
6.【地学×倫理】いま、不可逆性は地球規模で測られている
最後に、現在進行形の話をする。
ポツダム気候影響研究所(PIK)が2025年9月24日に公表した「Planetary Health Check 2025」は、地球システムの9つの限界(プラネタリー・バウンダリー)のうち7つが超過されたと報告した。突破されている7つは、気候変動、生物圏の一体性、土地利用変化、淡水利用、生物地球化学的循環、新規化学物質、そして2025年に新たに加わった海洋酸性化である。安全圏に残るのはオゾン層破壊とエアロゾル負荷の2つのみで、7つはいずれも悪化傾向を示している(下記出典20)。
ストックホルム・レジリエンス・センターの発表によれば、産業革命以降、海洋表層のpHは約0.1単位低下し、酸性度としては30〜40%の増加にあたる。冷水性サンゴ、熱帯サンゴ礁、北極の海洋生物がとくに危険にさらされており、多くの種の重要な餌となる翼足類(ウミウシの仲間)には殻の損傷の兆候が現れている(下記出典21)。
この枠組み自体の学術的基礎は、2023年に Science Advances 誌に発表された Richardson らの論文にある。同論文は6つの限界が超過されており地球はすでに人類にとっての安全な活動空間の外にあると評価し、当時、海洋酸性化は突破に近づいていると述べていた(下記出典22)。2年後にそれが現実になった。
[本稿の文脈で読むと、こうなる。]
海洋酸性化は、本稿の分類でいう「② ヒステリシス」に該当する典型例である。大気中CO₂を減らしても、海洋のpHが元に戻るには数百年から数千年の時間スケールがかかる。深層循環の時定数がそれを決めている。人間の政策サイクルとは、桁が3つ違う。
そして PIK の Rockström 所長は、悲観だけでは終わらせていない。ストックホルム・レジリエンス・センターの発表によれば、エアロゾル汚染の減少とオゾン層の回復は、地球規模の開発の方向を転換することが可能だと示している。診断は厳しいが治療の窓はまだ開いており、失敗は不可避ではなく選択であると述べている(下記出典21)。
安全圏に残った2つが、どちらも「人類が意図的に対策した項目」であることに注目したい。 オゾン層はモントリオール議定書、エアロゾルは各国の大気汚染規制の成果である。不可逆性の手前で止めれば、系は自力で戻る。 第1稿で書いた「壊さなければ自分で回復する系」という言い方は、地球規模でも成立している。
7.【実務】不可逆性チェックリスト
シリーズの作法として、明日使える形に落とす。第2稿のチェックリストに、物理側の項目を追加する。
[筆者作成]意思決定の前に確認する7項目
- 回復時間 T を、まず見積もったか (「戻せるか」ではなく「何年かかるか」を数字で出す)
- T は評価期間より短いか。T > 30年なら、逓減割引率を併記したか (英国グリーンブックは30年超で逓減スケジュールを規定。T > 評価期間 なら、費用便益分析だけで結論を出さない)
- 不可逆性の段階を判定したか (① 遅いだけ ② ヒステリシス ③ 完全な不可逆 のどれか)
- 回復債務を計上したか (回復完了までの数十年、機能は3〜5割減で推移する)
- 代替技術の熱力学的下限を確認したか (「後で技術が解決する」の技術に、越えられない床はないか)
- T の見積もりの不確実性を、行動しない口実にしていないか (リオ宣言第15原則。不確実性は、不可逆性の疑いを強める材料である)
- 判断の誤りの非対称性を図示したか (4象限のうち、修正できないマスはどれか)
項目5は、とくに強調したい。 「いまは壊すが、将来の技術で戻せる」という論法は、意思決定の場で頻出する。だが技術には、熱力学が決めた床がある。 DACの20 kJ/molのように、どれほど革新が進んでもそれ以下にはならない値が存在する。その床を確認せずに将来技術を前提にするのは、計算ではなく願望である。
8.【授業設計】理科×社会の教材化メモ
[物理・化学]混合エントロピーを計算させる
- ΔS = −R[x ln x + (1−x) ln(1−x)] に x = 400×10⁻⁶ を代入させる
- 出てきた 約22 kJ/mol という値を、実際のDACの消費エネルギー(約400 kJ/mol)と比較させる
- 問い:「技術が進歩したら、この22 kJ/molを下回れるか?」
- 狙い:物理法則が技術の上限を決めることの理解。本稿で最も教材価値が高い
[物理]破壊と構築の経路数を体感させる
- ブロックを積んだ塔を、①崩す ②同じ形に積み直す の時間を計測させる
- 「崩し方は何通りあるか」「積み方は何通りあるか」を考えさせる
- 狙い:確率としてのエントロピーの直観
[物理×歴史]身近な「往復時間」を調べさせる
- 学校や地域の資産(建物、樹木、土壌、道路)について「壊す時間」と「戻す時間」を調べ、比の表を作らせる
- 比が最も大きいものは何かを議論させる
- 狙い:時間の非対称という視点で身の回りを見直す
[数学×社会]割引率と回復時間の関係を計算させる
- 1/(1.04)^T を T=30, 100, 150, 450 で計算させる
- 次に、英国グリーンブックの逓減スケジュール(3.5%→3.0%→2.5%→2.0%→1.5%→1.0%)で同じ計算をさせ、T=450年で約1万5千倍の差が出ることを確かめさせる
- 「割引率4%は、回復に何年かかる資産までなら適切に扱えるか」を議論させる
- 狙い:手法には適用範囲があること、そして同じ手法でも設定次第で結論が変わることの体感
[倫理・思想]4象限で誤りの非対称を書かせる
- 身近な意思決定(部活の備品購入、校庭の樹木の伐採など)で4象限表を作らせる
- 「修正できないマス」があるかを判定させる
- そのうえでリオ宣言第15原則を読ませる
- 狙い:期待値だけでは決められない場合があることの理解
[発展・探究]オフセットは成立するか
- 「ここを壊す代わりにあそこを再生する」という取引を、回復債務(個体数46〜51%減など)の数字を使って検証させる
- 狙い:制度の前提を、データで問い直す経験
9. 結論:物理は「べき」を語らない。だが「できない」は語る
本稿の主張を4行にまとめる。
第一に、破壊と回復の非対称は物理的に必然である。 破壊は自発的で経路が無数にあり、構築はエネルギー流入速度に縛られ経路が限られる。壊すのは反応速度、戻すのは供給速度。桁が違う。
第二に、その非対称は定量できる。 木材1トンを燃やして得られる熱は18 GJ。そのCO₂を実機DACで回収するのに要する仕事は15〜20 GJで、これを木材でまかなうと**1〜3トン(文献の枠組みに忠実に読めば3トン側)**が要る。1トン燃やして、戻すのに3トン。 そして理論最小の20 kJ/molは、どれほど技術が進んでも下回れない。
<2026年8月15日 追記:見出しの「1トン燃やして、戻すのに3トン」について。この数字は、木材の炭素率50%・発熱量18 GJ/t・バイオマス発電効率30%という仮定に依存する。本文第2章で示したとおり、必要な木材はケースA(熱で直接供給)で0.8〜1.1トン、ケースB(発電経由)で2.8〜3.7トンであり、正確には「1〜3トン」の幅で理解されるべき値である。引用元の文献がこの数値を仕事・電力等価として扱っていることから、本稿はケースBを主たる読み方としている。SNS等で本稿を紹介する際も、この幅を落とさないよう留意する。>
第三に、実際にはもっと悪い。 回復は遅いだけでなく、ヒステリシスで戻り切らず、回復途上では3〜5割の機能欠損(回復債務)が累積する。「後で再生する」は、想定より高くつく。
第四に、この非対称が倫理に非対称な義務を生む。 現在世代は未来世代に影響できるが、逆はできない。だからヨナスの言うとおり、責任は一方的に発生する。 そしてリオ宣言第15原則は、それを「不可逆的な被害のおそれ」という形ですでに国際法に書き込んでいる。
シリーズ6本を振り返ると、同じ形が繰り返し現れていた。
明治政府は計算した。その計算式には、回復時間 T が入っていなかった(第2稿)。
越後の村人は断った。断れる体力があったから断れた(第3稿)。
下北沢では、反対する側が管理する側になった。そして250人が2週間ごとに集まり続けている(第4稿)。
この三つは、すべて「時間をどう扱うか」の話だった。
物理は、私たちに何をすべきかを教えてくれない。エントロピーは倫理を含んでいない。 だが物理は、何ができないかを正確に教えてくれる。
- 混合したものを、仕事なしに分離することはできない
- 150年かかる森を、10年で作ることはできない
- 絶滅した種を、戻すことはできない
「できない」ことのリストが十分に長ければ、「すべき」はかなり絞られる。
第2稿の最後に、私は「割引率の選択は倫理の問題である」と書いた。本稿で付け加えるなら、こうなる。
割引率を選ぶのは倫理だが、割り引かれる時間 T を決めるのは物理である。 そして T は交渉できない。値切れない。技術で圧縮できる範囲にも、熱力学が決めた床がある。
経済学は、この問題に無力ではない。英国は30年を超える事業に逓減割引率を課し、不可逆な世代間移転には専用のガイダンスまで用意している。日本の実務が、まだそこにいないだけとも評価し得る。
サステナビリティとは、この T を尊重することだ。
150年かかるものは150年かかる。そのことを知ったうえで、それでも植える。 明治神宮の林学者たちがやったのは、結局それだった。
出典一覧
熱力学・散逸構造
- Wikipedia「熱力学第二法則」 https://ja.wikipedia.org/wiki/熱力学第二法則
- Wikipedia「散逸構造」 https://ja.wikipedia.org/wiki/散逸構造
分離の熱力学・直接空気回収(DAC)
- National Academies of Sciences, Engineering, and Medicine (2019) Negative Emissions Technologies and Reliable Sequestration: A Research Agenda, Chapter 5 “Direct Air Capture” https://www.nationalacademies.org/read/25259/chapter/7
- House, K. Z. et al. “Economic and energetic analysis of capturing CO₂ from ambient air” PNAS https://sequestration.mit.edu/pdf/1012253108full.pdf
- “Kinetic and thermodynamic limitations in direct air capture: toward optimized adsorbent design and regeneration strategies” ScienceDirect https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S2211339825001315
- “Overcoming the Entropy Penalty of Direct Air Capture for Efficient Gigatonne Removal of Carbon Dioxide” ACS Engineering Au https://pubs.acs.org/doi/10.1021/acsengineeringau.2c00043
土壌
- 西尾道徳「No.326 土壌侵食速度測定上の問題点」環境保全型農業レポート https://lib.ruralnet.or.jp/nisio/?p=3727
- Wikipedia「土壌流出」 https://ja.wikipedia.org/wiki/土壌流出
レジームシフト・生態系の回復
- 旭硝子財団 ブループラネット賞 環境用語集「レジームシフト」 https://www.af-info.or.jp/blueplanet/action/words/23.html
- Moreno-Mateos, D. et al. (2017) “Anthropogenic ecosystem disturbance and the recovery debt” Nature Communications 8:14163 https://www.nature.com/articles/ncomms14163
- Dr David Moreno-Mateos, School of Geography and the Environment, University of Oxford(研究紹介) https://www.geog.ox.ac.uk/staff/dmorenomateos.html
費用便益分析
- 国土交通省「公共事業評価の費用便益分析に関する技術指針(共通編)」令和5年9月 https://www.mlit.go.jp/tec/hyouka/public/230912/shishin/shishin230912.pdf
予防原則・国際環境法
- 環境省「環境と開発に関するリオ宣言」(参考資料5-1) https://www.env.go.jp/council/21kankyo-k/y210-02/ref_05_1.pdf
- EICネット 環境用語集「予防原則」 https://www.eic.or.jp/ecoterm/?act=view&serial=2635
世代間倫理
- ハンス・ヨナス『責任という原理――科学技術文明のための倫理学の試み』加藤尚武監訳、東信堂 https://www.hmv.co.jp/artist_ハンス・ヨナス_200000000133387/item_責任という原理-科学技術文明のための倫理学の試み_4610355
- 慶應義塾大学出版会「【試し読み】『ハンス・ヨナス 未来への責任』」 https://note.com/keioup/n/nffcee9fe1852
- 兼松誠「ハンス・ヨナスの責任倫理の射程」『医学哲学と倫理』第10号 https://pe-med.sakura.ne.jp/kanto/wp-content/uploads/2013/03/243796fa06124b111447d8f33a8b2dd7.pdf
エントロピーと経済学
- Wikipedia “Nicholas Georgescu-Roegen” https://en.wikipedia.org/wiki/Nicholas_Georgescu-Roegen
- Georgescu-Roegen, N. (1971) The Entropy Law and the Economic Process, Harvard University Press https://books.google.com/books/about/The_Entropy_Law_and_the_Economic_Process.html?id=WYQxAAAAMAAJ
プラネタリー・バウンダリー
- Potsdam Institute for Climate Impact Research (2025.09.24) “Seven of nine planetary boundaries now breached – ocean acidification joins the danger zone” https://www.pik-potsdam.de/en/news/latest-news/seven-of-nine-planetary-boundaries-now-breached-2013-ocean-acidification-joins-the-danger-zone
- Stockholm Resilience Centre (2025.09.24) “Seven of nine planetary boundaries now breached” https://www.stockholmresilience.org/news–events/general-news/2025-09-24-seven-of-nine-planetary-boundaries-now-breached.html
- Richardson, K. et al. (2023) “Earth beyond six of nine planetary boundaries” Science Advances https://www.science.org/doi/10.1126/sciadv.adh2458
長期割引率の制度(英国)
- HM Treasury The Green Book: Appraisal and Evaluation in Central Government(30年超の長期影響には逓減スケジュールを用いる旨および Annex 6) https://regulatoryreform.com/wp-content/uploads/2015/02/UK-Appraisal-and-Evaluation-in-Central-Governmentgreen_book_complete.pdf
- HM Treasury “Green Book supplementary guidance: discounting”(2026年2月更新) https://www.gov.uk/government/publications/green-book-supplementary-guidance-discounting /本文PDF https://assets.publishing.service.gov.uk/media/698f30a4492ea446ea7f43d3/Green_Book_supplementary_guidance_-_discounting.pdf
- Grantham Research Institute / CETEx “Response to the UK Government review of discounting in the Green Book”(逓減スケジュールの区分の整理) https://cetex.org/wp-content/uploads/2026/03/Response-to-the-UK-Government-review-of-discounting-in-the-Green-Book.pdf
- HM Treasury “Intergenerational wealth transfers and social discounting”(超長期かつ不可逆な世代間移転に関する補足ガイダンス) https://www.thenbs.com/PublicationIndex/documents/details?Pub=HMT&DocID=303722
- HM Treasury “Green Book Discount Rate Review: Summary of Findings and Recommendations” https://assets.publishing.service.gov.uk/media/6a43915e7ac6fd9c6a94abbe/Findings_and_Recommendations_-_Green_Book_Discount_Rate_Review.pdf
本シリーズ既刊(各記事の詳細な出典は当該記事末尾を参照)
- リアル理科社会001「サステナビリティは南方熊楠に学ぼう」
- リアル理科社会002「明治政府は計算していた。ただし、項目が足りなかった」
- リアル理科社会003「100年前に知事の判断で神社合祀を免れた新潟の今」
- リアル理科社会004「下北沢:明治神宮でも、鎮守の森でもない、緑地の”第三の型”」
- リアル理科社会005「理系と文系の掛け算を36マスで管理する」
さらに読むなら
- 中谷宇吉郎『科学の方法』岩波新書
- I. プリゴジン、I. スタンジェール『混沌からの秩序』みすず書房
- N. ジョージェスク=レーゲン『経済学の神話――エネルギー、資源、環境に関する真実』東洋経済新報社
- 加藤尚武『環境倫理学のすすめ』丸善ライブラリー
- M. シェファー『生態系の変動と復元――レジームシフトの科学』(Critical Transitions in Nature and Society)
本記事の記述は上記の公開情報にもとづき、筆者が要約・再構成したものです。引用元の文章をそのまま転載することは避け、内容は筆者の言葉で記述しています。「筆者試算」「筆者の整理」「筆者の提案」「筆者作成」と明記した数値・表はすべて、記載の前提にもとづく筆者独自のものであり、出典元の推計ではありません。とくに木材の炭素含有率(50%)と発熱量(18 GJ/t)、バイオマス発電効率(25〜35%)は一般的な概数を用いた仮定値であり、樹種・含水率・設備により大きく変動します。DACの実機所要エネルギー(8.2〜11 GJ/tCO₂)については、引用元がこれを仕事・電力等価として扱っていることを根拠にケースBを主たる読み方としましたが、実プラントでは高温熱の直接供給割合により所要量が変わりうるため、本稿では1〜3トンの幅で提示しています。破壊と回復の時間比較の表は、桁を確認するための粗い概算です。混合エントロピーの計算は理想気体を仮定した理論値であり、実プロセスの効率は含みません。プラネタリー・バウンダリーの評価には研究者間で議論があることも申し添えます。
